4~5歳頃の記憶(2)

昭和24、5年ごろ日常

家の前は県道226号幅は車がようやく離合出来る程の広さ砂利道で雨降りは車が泥水をはね天気

の日はほこりがして垣根、家のカベ等は泥んこで

汚れていた。 

自動車は一日に数台しか通らない珍しくて車の後を追って走りついて回っていた記憶がある。

道路のかんりのおじさんがいた。

自転車にツルハシ、スコップ、色々な道具を積んで悪いところを平らにして回っていた。

道路の両端は今の様な側溝は無く溝を掘っただけの排水溝だった。

強い雨が降ると流れが悪くすぐ満杯に成り道路脇の敷地に入り込む状態であった。

車の離合は1台が駅の広場までバックしていた。 

無理をして離合すると端の溝にはまりロープを掛け片方の車が引き上げていた。

溝脇のかきね、家の軒などこわし運転者が頭を下げていた光景が浮かぶ、その頃の自動車は木炭自動車だった。

農協の井戸水をタンクに入れてエンジンを掛ける時は棒を差し込みグルグル回していた。

車は子供が走ってついていけるスピードだった。

駅の広場、待合室、農協の広場、店舗、倉庫等が遊び場だった。

自動車は珍しかった見えると車の廻りに寄った。

遊び仲間は5、6人で名前、当時の顔が鮮明に

浮んで来る。

                     2017/8/1      

4~5歳頃の記憶(2)

昭和24、5年ごろ日常

家の前は県道226号幅は車がようやく離合出来る程の広さ砂利道で雨降りは車が泥水をはね天気

の日はほこりがして垣根、家のカベ等は泥んこで

汚れていた。 

自動車は一日に数台しか通らない珍しくて車の後を追って走りついて回っていた記憶がある。

道路のかんりのおじさんがいた。

自転車にツルハシ、スコップ、色々な道具を積んで悪いところを平らにして回っていた。

道路の両端は今の様な側溝は無く溝を掘っただけの排水溝だった。

強い雨が降ると流れが悪くすぐ満杯に成り道路脇の敷地に入り込む状態であった。

車の離合は1台が駅の広場までバックしていた。 

無理をして離合すると端の溝にはまりロープを掛け片方の車が引き上げていた。

溝脇のかきね、家の軒などこわし運転者が頭を下げていた光景が浮かぶ、その頃の自動車は木炭自動車だった。

農協の井戸水をタンクに入れてエンジンを掛ける時は棒を差し込みグルグル回していた。

車は子供が走ってついていけるスピードだった。

駅の広場、待合室、農協の広場、店舗、倉庫等が遊び場だった。

自動車は珍しかった見えると車の廻りに寄った。

遊び仲間は5、6人で名前、当時の顔が鮮明に

浮んで来る。

                     2017/8/1      

4~5歳頃の記憶(1)

400戸程の半農、半漁村である。

発動船と伝馬船で、爺さん、父、おじさん達3人を頼んで漁に出ていた。

朝3時半ごろ漁に出て6時半ごろに帰って来る。

母の後に付いて姉と浜で船の着くのを待つ、

浜には漁に出ている家族が大漁を待っていた。

船が着くと1番列車で鹿児島魚類市場への商人の準備で戦場の様な時を記憶している。

姉は魚を買いに来た人達の相手をして母の加勢が出来ていた。

自分は邪魔にならない様に眺めていた。

網を干し、ロープを干し、船を引き上げ家に帰るのは9時半ごろ母は先に帰りお茶の準備をして皆が上がって来るのを待つ、

準備が出来ていないと父が機嫌が悪くて大声で

どなる。 今は父の気持ちも理解できる。

子供心で母が可哀想でならなかった。 

母はやさしい頭の良いきれいな人だった。

今でも強く印象に残っている。         7/28

 

4~5歳頃の記憶(1)

400戸程の半農、半漁村である。

発動船と伝馬船で、爺さん、父、おじさん達3人を頼んで漁に出ていた。

朝3時半ごろ漁に出て6時半ごろに帰って来る。

母の後に付いて姉と浜で船の着くのを待つ、

浜には漁に出ている家族が大漁を待っていた。

船が着くと1番列車で鹿児島魚類市場への商人の準備で戦場の様な時を記憶している。

姉は魚を買いに来た人達の相手をして母の加勢が出来ていた。

自分は邪魔にならない様に眺めていた。

網を干し、ロープを干し、船を引き上げ家に帰るのは9時半ごろ母は先に帰りお茶の準備をして皆が上がって来るのを待つ、

準備が出来ていないと父が機嫌が悪くて大声で

どなる。 今は父の気持ちも理解できる。

子供心で母が可哀想でならなかった。 

母はやさしい頭の良いきれいな人だった。

今でも強く印象に残っている。         7/28

 

4~5歳の記憶

400戸程の半農、半漁村である。

発動船と伝馬船で、爺さん、父、おじさん達3人を頼んで漁に出ていた。

朝3時半ごろ漁に出て6時半ごろに帰って来る。

母の後に付いて姉と浜で船の着くのを待つ、

浜には漁に出ている家族が大漁を待っていた。

船が着くと1番列車で鹿児島魚類市場への商人の準備で戦場の様な時を記憶している。

姉は魚を買いに来た人達にはかり売りし母の加勢が出来ていた。

自分は邪魔にならない様に眺めていた。

網を干し、ロープを干し、船を引き上げ家に帰るのは9時半ごろ母は先に帰りお茶の準備をして皆が上がって来るのを待つ、

準備が出来ていないと父が機嫌が悪くて大声で

どなる。

子供心で母が可哀想でならなかった。 

母はやさしい頭の良いきれいな人だった。

今でも強く印象に残っている。         7/28

 

3歳の記憶

赤ちゃんが箱に寝かされていた。

横に母が座って居る記憶がある。

おじーいさん坊さんがお経を唱えていた。

親戚の金徳おじさんと父が くわ、スコップを持って

箱を抱えてお墓に行った姿が浮かぶ3歳下の幸子と呼ぶ妹の形だけの葬式の記憶である。

あれから69年私の記憶として最初インプットされた当時の様子だ感情的な記憶は思い出せないが

3つ子の魂100までと言うことわざは本当のように感ずる現在である。

15歳から後の事はブログに記してあるので15歳までを記憶をたどり就職するまでを書くことにする。

                  H29/7/21

 

 

 

最初の記憶

赤ちゃんが箱に寝かされていた。

横に母が座って居る記憶がある。

おじーいさん坊さんがお経を唱えていた。

親戚の金徳おじさんと父が くわ、スコップを持って

箱を抱えてお墓に行った姿が浮かぶ3歳下の幸子と呼ぶ妹の形だけの葬式の記憶である。

あれから69年私の記憶として最初インプットされた当時の様子だ感情的な記憶は思い出せないが

3つ子の魂100までと言うことわざは本当のように感ずる現在である。

15歳から後の事はブログに記してあるので15歳までを記憶をたどり就職するまでを書くことにする。

                  H29/7/21

 

 

 

3歳の記憶

赤ちゃんが箱に寝かされていた。

横に母が座って居る記憶がある。

おじーいさん坊さんがお経を唱えていた。

親戚の金徳おじさんと父が くわ、スコップを持って

箱を抱えてお墓に行った姿が浮かぶ3歳下の幸子と呼ぶ妹の形だけの葬式の記憶である。

あれから69年私の記憶として最初インプットされた当時の様子だ感情的な記憶は思い出せないが

3つ子の魂100までと言うことわざは本当のように感ずる現在である。

15歳から後の事はブログに記してあるので15歳までを記憶をたどり就職するまでを書くことにする。

                  H29/7/21

 

 

 

語り伝えたいこと(2)

内薗さん小学校1年生の時の話

昭和20年7月27日ひる突然「ド、ドーン、パッ」と爆弾投下4人家族が

川エビを焼いて食べている最中だったと言う。

2 .3分前には内薗さんもその場に居た運が良かったと語る。

その場を離れ100m、自宅に着いたとたん爆風で魂が飛んだと言う。

瓦が飛び壁板が飛びタタミを吹き上げ恐ろしかったと語る。

家には妹が寝かされていたが吹き上げたタタミの御蔭で助かった。

その日は東風が強く大火になり寄り付く事が出来なかったと語る。

どうする事も出来なかった。

かわいそうだった幼い時の想いを語った。

戦争はだめと何回も語る。

 

私は生まれて2週間爆弾が落ちた位置から約150m祖父の家に寝かされて居た。

爆風で壁板、瓦、色々な物が吹き飛ばされた寝ている子に覆い被さっていたが無傷だったと運の強い子だと母が話していた事を思い

くい入る様に聞き入った。 

自分の命、この世に生きる始めた尊い日の話を聞いた元気を貰った。

 

                                      7/17

語り伝えたいこと(2)

内薗さん小学校1年生の時の話

昭和20年7月27日ひる突然「ド、ドーン、パッ」と爆弾投下4人家族が

川エビを焼いて食べている最中だったと言う。

2 .3分前には内薗さんもその場に居た運が良かったと語る。

その場を離れ100m、自宅に着いたとたん爆風で魂が飛んだと言う。

瓦が飛び壁板が飛びタタミを吹き上げ恐ろしかったと語る。

家には妹が寝かされていたが吹き上げたタタミの御蔭で助かった。

その日は東風が強く大火になり寄り付く事が出来なかったと語る。

どうする事も出来なかった。

かわいそうだった幼い時の想いを語った。

戦争はだめと何回も語る。

 

私は生まれて2週間爆弾が落ちた位置から約150m祖父の家に寝かされて居た。

爆風で壁板、瓦、色々な物が吹き飛ばされた寝ている子に覆い被さっていたが無傷だったと運の強い子だと母が話していた事を思い

くい入る様に聞き入った。 

自分の命、この世に生きる始めた尊い日の話を聞いた元気を貰った。

 

                                      7/17